・・・・・・
「紙幣も絵画も単なる一枚の紙きれですが、その価値という幻想をもちうる人や社会で共有されてはじめて価値が決まるものです。お金はデフレ、インフレ、国際為替によって常に変動しています。芸術も評論軸は常に揺らいでいて、ある人にとっては名作であっても、別の人にはなんの値打ちもないかもしれない。そうした紙幣や芸術の危うい共通性を作品にしてみたのが、この『肖像経済』なのです」
(中略)
「世の中にはお金よりも大事なものがあると言った革命家たちが、後に紙幣の顔になるという皮肉な転換も起こります。カラヴァッジオなどは殺人まで犯したのに、美的表現の成功者だという理由で紙幣になっている。イタリアでは、美は道徳を凌駕するんですね。(中略)さらにはこうして紙幣が芸術になると、今度は新たに作品としての値段がつきます。経済と芸術がクロスするところに複雑な価値の交錯が生じて、不思議な面白みのある世界が展開できたと思います」
・・・・・・
課題を書かない小説家志望の子たちは、コンテンツの着想や言葉とは自分の「中」にあるものだ、と考えているようだ。それを自分のなかから掘り出すために外部刺戟を遮断しているように見える。先人の書いたいろんな小説を読んでガツンとやられてる暇なんかないようだ。
いっぽう課題を出してくる学生たちにとっては逆に、コンテンツの着想や言葉は自分の「外」にあると感じられている。
授業で取り上げるから、というだけの偶然で出会った本。それがどのように書かれているか、その仕組みを感知し分析するなかから、それまでの自分になかった技法やネタを見つける。またその過程自体をエッセイやコラムに仕立てることで、本という「他人の言葉」との事故のような出会いを「コンテンツ」の形にまで持っていく。
人によっては、「どこからこういう文章が出てくるのだろう」と感心させられることもあり、そうなればある意味その学生は私という固定読者を得たようなものである。
(中略)
言葉ってものが自分のものではなく他人のものを借りて使ってるんだ、ということがわかってる人は、ひとりひとり個性的で美しい。
「自分にはかけがえのない個性がある」と思ってる人は、全員同じ顔してます。区別がつきません。
俳句って字数制限キツイし季語とか切れとか定型とかルールがキツイんだからただでさえ個性なんて出ない、まして先人の句を意識してたらなおさら……と考えている人も多いようですが、それは話が逆で、俳句の定型や切れや季語って、全員に制服を着せたらかわいい子とそうじゃない子が残酷なくらいはっきりわかっちゃう、というような意味であなたの言語センスが測られるのです。
しかも測るモノサシはひとつだけじゃない。『アンナ・カレーニナ』冒頭の一文をもじっていうならば、
「ダメな句は全部似ているが、いい句はそのよさが一句一句違っている」。
Vol.47 人の作品を読まない人の作品が、みんな似ている理由 コンテンツの着想や言葉は自分の「中」にあるのか「外」にあるのか
自愛は自己愛(ナルシシズム)とは異なる。自己愛においては自己は対象であり、しかも愛する理由は美醜などの社会的規準に支配されている。また自愛は、自己中心主義(エゴイズム)ともまったく違う。エゴイズムにおいては自己は徹底的に目的化されており、世界のすべては自己利益を追求するための手段となっている。
それに対して自愛というのは、手段‐目的という連鎖の外にあるものであり、社会における相対的な価値とは無関係に自分を大切にし、幸福と言える客観的な理由がなくても、自己の存在に幸福を感じることである。よく「能力はなくても人生に自信を持て」とか「お金がなくても幸せに生きられる」とか言われるが、そいう言い方では全然ダメだと思う。「なくても」なんて言い方には「あるに越したことはないけど」というホンネが隠れているからだ。そういう貧乏くさい説教ではなくて、能力やお金の有無とは本当に、完全に、徹底的に無関係な自愛の感情を伝染させることが、重要なのである。
何も幸福になる理由がないのに幸福だなんて、まるでバカみたいじゃないか、と思う人もいるかもしれない。その通りでいいと思う。ぼくたちは膨大な情報に囲まれて賢くなりすぎているからだ。もう少しバカみたいなところがあった方がいい。
……本書の前作であるハワイエッセイ『アロハ萌え!』のなかで著者の記した言葉、「人生は『ハワイに行く前』と『行っている時』しかない」は、ハワイ好き読者たちの涙を誘ったという名言だが、じつに、著者のハワイへの思い入れの深さは底知れない。
(中略)
また、著者は滞在時にホテルのお風呂で使う入浴剤を「ツムラの「きき湯」の青色」と決めていて、それはなぜかといえば、ハワイでその湯に浸かり続けて「ハワイのお風呂」という感覚を刷り込ませ、それを日本の家のお風呂で使うことでアロハ萌え作用をもたらすため、なのである。
(中略)
かつて、ハワイ行きの準備の段階で、帰ってくる時のことを想像しては落ち込んでしまっていたという著者。そこで彼女が辿り着いたのが、ハワイから帰ってきた瞬間から次のハワイ行きへの準備がはじまる、つまり「人生は『ハワイに行く前』と『行っている時』しかない」という境地なのだった。ゆえに、著者のハワイへの思いが強まれば強まるほど、そのアロハ萌えな日常へのいつくしみもまたパワーアップするようにみえる。
(中略)
これはもしかすると、ハワイというハレの場よりもむしろ、それ以外の日常を生き抜くための本なのではないか、と深読みされてしまったという訳なのである。
・・・さて、ここからは私見ですが、僕はこのような訴訟、主張には、非常に強い違和感を覚えます。
なぜ読者は、購入した本の使い道までを、作家に指示されなくてはならないのでしょうか。
購入した本は購入者の物で、楽しみ方は自由なはずです。
お年寄りの場合、電子書籍のほうが文字を拡大して表示できるので便利ですし、若者にしても、何冊も紙の本を持ち歩くのは重いので、データを端末に入れておいたほうが、どこでも読書ができて便利ということもあるでしょう。
自炊は本をデータに置き換えて、個人の範囲内で使用する物ですから、作家活動には何ら影響を与えません。
自炊によって、本の売り上げが下がるというようなこともなく、むしろ、自炊をするためには読者は本を買わなくてはいけません。
自炊代行業者の影響で紙の本の売り上げが下がったということを示すデータは、今の所、ひとつもありません。
裁断された本がネットで販売されている例もあり、今回の訴訟でも裁断された本を積んで、「こんなことが行なわれているんですよ」と記者会見を行なったようですが、中古品の販売は合法ですし、それを言い出すと、ブックオフの株主には出版社もいます。
中古販売を行なっている者が、他の中古販売を行なっている個人を断罪するなど、いじめに過ぎません。
複製権に抵触するかどうかは、判例がないのでグレーですが、この件の弁護団とは逆に、違法性はないとする弁護士も多数いらっしゃいます。
仮に代行業者の業務に違法性がなく、作家の権利を脅かされる物でもないのだとしたら、彼らはなぜこのような訴訟を行なうのでしょうか。
僕は、本を買った後の使い方まで指示されるなら、その作家の本はあまり買いたくありません。
他にも楽しい物はいっぱいありますし、中古で買うな、売るな、漫画喫茶で読むな、自炊するな、と言われたら、本は新刊で買って、読まなくなったら捨てるしかないです。
わざわざ自炊をしてまで、自分の著作を読もうとしている人達を、なぜ閉め出そうとするのでしょうか。
作家は自分たちの権利のことばかりを考えて、読者(お客さん)のことを考えていないように思います。
そんな不経済で資源をムダにする物を、誰も必要としなくなってしまうのではないかと思うのです。
本が売れない時代にあって、作家や出版社が自分の権利ばかりを主張し出したら、誰が本を買うのでしょうか。
「じゃあ、いらないよ」と言われるだけではないでしょうか。
1つ目のルールは、「右上がり六度法」です。
「右上がり」というのは、
文字を書くときの体の自然な動きなんです。
字というのは点や線の集積で、
その中でも最もウエイトが高いのは
横の線を書く動きです。
横の線は、こぶしが左から右に移動します。
その大元の動作は、
このように腕を振ることなんです。
(体の前で、腕を横に振る)この、腕を振る動作が腕の先端で縮小されて、
鉛筆を左から右に移動する動作になる。
そのとき、遠心力で右に上がるのが自然なんです。
やや右上がり。
実験の結果、書きやすくて字の形がよくなるのは
六度強ということがわかりました。
その角度で右に上がると、きれいな字になる。
「六度法」という名称もこの法則によっています。2つ目のルールは、「右下重心法」といいます。
右上がりにしますと、字は当然傾きます。
そこで右の下に重心をかけることで、
バランスをとるのです。
実際に書いてみれば、わかると思います。いくつかのパターンはありますが、
右下へ十分にひっぱって書けば、
横画や、縦画の書き出し位置や、
パーツの配置が右上がりでも、
文字全体は安定するということです。そして最後、
3つ目のルールが、「等間隔法」です。
これはもう、そのままの意味で、
何本かの線が平行するときは、
その間隔を等しくするということです。
「三」とか「川」とか「冊」とか、
平行する線でスペースを分断するときは
等間隔にするということです。
これはどなたもなさってることです。
この3つだけです。2136人がひとりずつ階段を上るのでは
時間がかかりますね。
六度法の3つのルールを使って書くということは、
2136人がそろって
一階から二階にジャンプするように
変わるということです。
それに、六度法は、
ひらがなとカタカナにも使えるんです。
どちらも漢字からできていますから。
ですから、
漢字仮名交じりの文章が書けるというわけです。
・・・・・・田中「20年前、僕らの世代が初めて海外のアーティストのライブを観るためには、5年も6年も待たなきゃいけなかった。大好きなレコードは3年前のレコードで、最新作はあんまり好きではない、でも遂にロッド・スチュワートがやって来る、5年間ずっと想像を膨らましていたロッド・スチュワートが、もしかしたらカッコ悪くなっているかもしれないけど来日する、ポール・マッカートニーがウィングスとして遂に初来日する——それは何がなんでも行くよね。それと以前は、それぞれのソロ・コンサートが入り口だったけど、今だとやっぱりフェスティバルがいろんなものの入り口だよね。ライブハウスやホールでのライブが原体験っていう人は少ない。16歳で初めて『SUMMER SONIC』や『ROCK IN JAPAN』に行ったっていう人が多いでしょう。そこでの体験が原体験になっているジェネレーションが、ここ5、6年で確実に増えている。で、洋楽フェスが原体験になってる人と邦楽フェスを原体験に持ってる人では、明らかにトライブが違ってくるよね」
後藤「なるほど」
田中「そうなると、まったく海外の音楽に興味のない人たちが出てきてもおかしくない。良い/悪いじゃなくてね。20年前に比べれば、日本のアーティストの数は100倍になり、クオリティは間違いなく格段に上がった。そうした状況下で、自分たちのリアリティにそぐわない、よくわからない海外の言葉で歌っている音楽をわざわざ聴こうとするモチベーションっていうのは、その世代には生まれないと思う。うん、だから、そういった、諸々のいろいろなことが重なっているんだと思う」
後藤「そうですね、流れとしては。難しいなと思うんですよ、若い子を捕まえて“洋楽を聴け”っていうのは。別に聴かなきゃいけない必要はないし」
田中「ないない(笑)」
(中略)
田中「ところが、YouTubeで何でも聴けるようになったせいで、誰も何も聴かなくなった。自分がもともと好きなアーティストの新しい曲は聴く、そこから繋がりのあるものを聴いたりはする、でも、それでお腹一杯になっちゃって、知らないものをわざわざ聴いてみようとは思わなくなった。その結果として、20年前に比べて、Amazonも含めて、バックカタログが本当に手に入らなくなった。例えば、僕が高校生のころ、30年前はヴェルベット・アンダーグラウンドのアルバムを手に入れるのはすごく大変だった。ところが、90年代初頭になるとTOWER RECORDSやHMVができはじめて、CDで全て手に入るようになった。映画監督でもあり、ビースティ・ボーイズのデザインもしているマイク・ミルズが、『TOWER RECORDSは、僕らの世代にとってのMoMAなんだ』と言っていたんだけど、そういう状況が20年前に出来上がった。ところが、それがYouTubeの登場によって、パッケージとして流通される必要がなくなってしまった。そうなると、パッケージとしてヴェルベット・アンダーグラウンドのアルバムを誰も手に入れられなくなるっていうおかしなことになったんだよね。YouTubeでは聴くことは出来るけど、ヴェルベット・アンダーグラウンドを聴くためにYouTubeを検索する人は本当に少ないと思う。すぐに聴けたりするものを誰もが欲しがることは、まずないんだよね。だから、“ストリーミングできます”、“ダウンロードできます”っていうのもそれと同じだと思うんだけど」
後藤「それは興味深いし、考えていかなきゃいけないですよね。実際に実験して欲しいと僕は思ったりもするんですけどね」
・・・・・・だからこれは偶発それ自体なのではない。セレンディピティは「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」とがうまく出会ったときにおこっているというべきなのである。
「やってくる偶然」は自分では律していない。向こうからやってくる。かつてメーテルリンクがさかんに強調したことだ(68夜)。一方、「迎えにいく偶然」には自分の意図や意思がいる。意図や意思の持続がいる。意図をもって偶然を迎えにいかなければならず、それゆえこれはふだんから準備していなければならない。
その意図や意思には、自分が何を求めているのかということを試行錯誤したプロセスをトレースしておくという努力がともなっている。これが「迎えにいく偶然」だ。このとき、ふいに「やってくる偶然」に出会って、格別のセレンディピティが生じる。これを澤泉は「偶察力」と言ってもいいだろうと書いている。なるほど、この訳語は近い。たしかにセレンディピティには偶察力が動いている。
(中略)
実はホレス・ウォルポールはセレンディピティとともに、もうひとつの重要な言葉を提案していた。「サガシティ」(sagacity)だ。
(中略)
サガシティは分析や省察ではない。何かにふいに気がつくことだ。気がついて、自分が立ち向かっている全貌や方向や方法がパッと見えることである。たんに気がつくのではなく、気がつこうとしていた気持ちや意図や気分のヴィークルに乗って、“何か”の一事が万事につながっていくことをいう。また、そうなるにはその一事に着目できるだけの、ソフトアイや周辺観察性が動いていなければならないことをいう。それがサガシティで、だからこそ察知力なのである。
これで、おおまかなことはつかめたと思う。「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」は、二つでひとつのはたらきをするわけだ。
それでは、そのはたらきが何をもたらすかといえば、ここがいよいよ核心点に近くなるのだが、ずばり、「アブダクション」をもたらしている。仮説能力が形成されるのだ。
(中略)
ごく平たくいえば、アブダクションとは推察・推感をその行く末を見据えて思考のシナリオを先取りできる編集方法のことをいう。仕事をしていたり、何かを企画しているときに、この先取りの編集方法がどのようにはたらくかが重要なのである。
もう少し説明すれば、こうなろう。
そもそも予測であれ、ひらめきであれ、シナリオの創造であれ、なんらかの先取りができるためには、自分がいま立っている発想や思索に多少の“ゆるみ”が生じる必要がある。
(中略)
むしろ自分の“いま”に、不足や曖昧やまちがいや過度があることを許容したほうがいいはずだ。
そうすると、進行中の作業や発想に、それをさらに進めるうえでの発想モデルや思考モデルが自分には“ない”ことに気がつく。これは自分の発想力や企画力や思考力に展望性や可塑性がないということだから、がっかりしてしまうこともある。しかし、がっかりしているのではまずい。なぜなら、自分に発想モデルや思考モデルがないということは、いいかえれば、ここが肝心なのだが、そこに「欠けたモデル」があったことに気がつけばいいということなのだ。
このとき、この「欠けたモデル」に当たる“何か”が、向こうからやってくるときがある。これが「やってくる偶然」だ。これを「欠けたモデル」をもっている自分が「迎えにいく偶然」の鍵か鍵穴かの片われと出会えたらしいと思えたとき、そこにセレンディピティがおこるわけである。
それは、まさに仮説形成能力としてのアブダクションの成立でもあった。また、「偶察力セレンディピティ」と「察知力サガシティ」が互いに手をたずさえて、自分が発想や構想を陥穽させる“何か”を先取りしたことでもあった。
松岡正剛の千夜千冊/1304夜 澤泉重一・片井修 『セレンディピティの探求』
・・・・・・津田:みんなが叩きやすい情報をピックアップし、そして叩く。そうすることでアクセスを増やし、広告料を増やしていく。その結果、運営者はうまいメシを食うことができる。
あとゴシップ系の記事がよく読まれるというのも、同じような構図。他人の不幸を楽しむ人は多いので、そうした記事はアクセスが集まりがち。そして運営者はアクセスが集まるような記事を狙いがちになる。それはジャーナリズムでもなんでもない。
マスゴミよりもひどい“マスゴミ的なこと”をしている人たちが縮小再生産され、そうしたマスコミの悪い部分だけ集めた小さなメディアが拡大、拡散している状況がありますよね。
鈴木:ネットの場合は、「違う人からどう見えるか」ではなく「うがった見方を他者と共有する」ことがメディア批評の醍醐味になっていますからね。その一方で、ネット専業のメディアも成熟しつつあるのではないでしょうか。最近、「遊び心のある記事が減ったなあ」と思っています。アイティメディアも含めて(笑)。
(中略)
津田:『ガジェット通信』や『ロケットニュース24』などを見ていると、いわゆる“釣りタイトル”が多い。なぜ釣りタイトルが多いかというと、アクセスが集まらないから。逆にいうと、そうすることでしかお金を集める手段がないという不幸でもあるんですよ。
個別の記事で読むと良い記事や「お、これはマスメディアでは絶対に載らないオルタナティブなジャーナリズムだな」ってものもあるんですけどね。人の不幸や叩きやすいものをひたすら叩いてアクセスを集めてそれでお金に換えるという状況は不毛だな、と思いますね。
鈴木:マネタイズの問題であると同時に、アクセス数という明確な数字に表れる、読み手の方の要求の問題でもありますね。
(中略)
鈴木:メディア研究では「サウンドバイト」の問題がよく指摘されます。テレビは1つの話題を扱う時間が短いので、出演者やVTRでのコメントも、一言で結論が見えるようなものばかりが取り上げられてしまう。でも前後の文脈を交えるとまったく逆の意味になる言葉ってあるわけです。
テレビに出る際には、どうしても5秒、10秒で何を言えるかが問われてしまう。文章を2つつなげないと伝わらないような内容を話したかったら、語りだしから「この人は分かりやすく喋る人だなあ」という印象を持たれるような言葉を使わないとダメ。でも抽象的な内容って、そもそもじっくり話さないと分からないわけだから、それを丸めるとどうしても「何かいいことを言ってるようで、内実のまったくない話」になってしまいがち。
煽りを抜きに結論だけ言うと、ネット視聴率において外部リンクによるサービスはそのサイトの利用者と認めないケースが多いので、いままで外部サイトに置かれていたmixiの「イイネ!」ボタンを利用者とカウントしていたネットレイティングス側がいままでミスをしてきたということであり、いままでがゲタを履いた数字、これからが正味のmixi利用者の数字であって、本来であればネットレイティングスが過去に遡ってmixiの利用者数を「下方修正」しなければならないはずです。
つまり話は簡単なのだ。人文学が専門に分かれることには、単に戦略的な意味しかない。いわゆる専門的、棲み分け的なアプローチから生まれるのは民主主義の体裁をまとった官僚主義的低落である。質を逆向きにするには、秀逸な人材を逸らさずに集めるため〈エクセレンス・センター〉のようなものが必要である。人を集め、それぞれの人間が、それぞれの分野でのディスプリンを通過していくのを待つ。「専門」というものはそれだけのものだ。専門を掘り下げることで初めて、人間学の全体に頭脳を晒して啓蒙を待つ、その方法を知るためにあるのではないだろうか。
「欧米でも、若者の収入は日本と同じように減っていると言われています。でも、収入低下が結婚を思いとどまらせるのではなく、かえって結婚を増やしている」
と、山田さんは言う。理由はこうだ。欧米は南欧諸国をのぞいて、独身男女のほとんどが独り暮らし。ひとりで生活するのが苦しいから、結婚や同棲で一緒になって、食費、住宅費、光熱費などをシェアしようということになる。一方、日本や韓国や台湾、イタリア、スペインなどは、独身者が親と同居している率が高い。だから結婚しなくても生活できる。
「収入の低い男性と結婚するより、収入の高い親と住んでいたほうがいいと思ってしまう。これが私のパラサイトシングル説です」
(中略)
たとえば、こんな現象にも、収入低下が少なからず関わっていると、山田さんは考える。
「恋愛に積極的になれない男性が増えたこと」だ。「文化的な要素もあると思いますが、とにかく恋愛に消極的な男性が激増しているというのは感じます。たとえば私の友人で、若者雑誌の恋愛記事を分析している研究者がいますが、バブル崩壊以降、女性へのアプローチの姿勢が大きく変わったのが、雑誌の記事を通しても見て取れるといいます。80年代は男性から積極的に女性をものにしようという記事が多かったのに対して、バブル崩壊以降は、アクションをおこしても『好意を持っていることをそれとなくにおわせる』くらい。待ちの姿勢の記事がほとんどです」
かたや女性は「収入が安定しない男性とは結婚したくない」という志向を持っている。恋愛においても同様。
「すべての恋愛が結婚を前提にしているわけではないが、少なくとも結婚してもいい人でないとデートすらしないのが日本女性。つきあう段階で、男性をスクリーニングしがちなんですね。経済力がない男性は、女性からスクリーニングされるのをわかっているから、積極的に出ても無駄と思ってしまう。簡単に言うと、自信がないということですね」
(中略)
「結婚生活において大切なこと」を、日本、韓国、アメリカ、フランス、スウェーデンの男女に聞いたところ、5か国とも、男女で一番多かった答えは、「相手に誠実なこと」。ところが、続く二番目に「十分な収入」という答えが多かったのは、日本と韓国だけだった。逆に「性的魅力を持ち続けていること」と「夫と妻双方が仕事をもつこと」と答えた率は、日本が5か国中最低という結果に。
「昔は世界中が、男は仕事、妻は主婦でよかった。イギリスなんて9割が専業主婦という時代もあったんです。アメリカも1950年には75%と、日本より専業主婦率は高かったわけですよ。ところが、時代は変わった。欧米は女性が働く社会への転換が着実に進んでいるものの、日本ではまだ、男性の収入に頼りたい気持ちが女性に根強いんですね。これが非婚の増加を生んでいる、3つの方程式のひとつです」
(中略)
そのため、安定男子をめぐる競争は激化し、青田買いに走る女性も出てくる。
(中略)
「それも格差の壁が高くなったことと無関係ではないですね。昔は、若い頃は冒険をしても、いつか就職して出直すという選択もできた。一見、リスクフルな生き方も、ある程度ヘッジされていたのです。ところが今は、ひとたび非正規雇用の道を選んでしまえば、一生非正規雇用のまま。勝ち組と負け組の間の壁は、ますます厚くなり、安定する人はより安定し、不安定な人はより不安定になる。男女とも保守化するのは、当然のことですね」